榊原氏ゆかりの寺
徳川四天王の一人榊原康政の兄榊原清政は、幼年の頃から家康公に仕えていた譜代の旗本で、のちに家康公の長男信康に仕えました。
しかし、家康公の正室築山御前と信康が信長から謀反の疑いをかけられ、信康が遠江二俣城で自害すると、清政は弟康政のもとに閑居謹慎していました。
そして、再び家康公から召し出され、要害の久能山城を守ることを命じられました。
慶長12年(1607)清政が死去すると、家康公は清政の子照久が引き継いで久能山城を守ることを命じました。照久は大阪の陣への出陣を懇願しましたが、家康公から久能山城の守護を厳命されました。
久能山東照宮に向いて建つ照久の墓塔
元和2年(1616)4月17日、家康公が駿府城で死去されると、2代将軍秀忠公は中井大和守に命じて久能山に東照宮を造営させ、さらに、秀忠公は初代の神主に榊原照久を任命しました。
家康公は照久に 「汝は新鮮な魚や野菜を度々献上した。自分が死んだら久能山に葬り、汝は新鮮なものを、生前にした如く供えよ」と遺言し、その遺言に従って久能山に埋葬されました。
家康公は、生前、照久に 「久能山は駿府城の本丸だ」 と語り、守りやすく攻め難い地の利の重要性を説きました。照久もまた、その任務の重大さを認識し、家康公の死後、身をもって久能山東照宮の警固にあたりました。
そして、照久は家康公といつまでもお供する気持ちから、「自分が死んだら墓塔を久能山東照宮の家康公に向かって建てよ」と遺言したといわれています。
境内の一番奥の高台には、榊原照久の墓塔が遺言どおり久能山東照宮に向けて建っています。
以降、榊原家は歴代の当主が久能山を守る総門番として任務を務め、久能山警備の任務を全うしました。
昭和60年に宝台院との合併が成立し、境内地を拡張しました。
宝台院より墓地移転整備をし、昭和61年11月に本堂落慶式を挙行し、宝台院別院となりました。
榊原氏一族の墓
本堂全景 後方は久能山
山門
庭園から見た景色
かしく坊(雲水夢覚)の墓
参拝のご案内
本堂内 本尊
徳川家康公、徳川秀忠公、宝台院殿の位牌
簡易エスカレーター